思春期の想像力 -花とアリス殺人事件 感想-
先月、Netflixを回遊していると『花とアリス殺人事件』が配信されているのを見つけたので、岩井俊二作品が好きなのもありすぐさま視聴した。
アニメだが岩井俊二作品特有のカメラワークやレイアウト、台詞回しのテンポ感とリアリティは健在で、紛うことなき岩井俊二作品であった。
内容は、同じ岩井監督の『花とアリス』に繋がる前日譚的なもので、二人が出会ってから親友になるまでが描かれる。
『花とアリス』はもともと好きな作品の一つだったので、観ていて『花とアリス』を観ていた時の感情が想起されとても感慨深いものがあった。
本作は「殺人事件」と銘打ってあるものの、作中では誰一人として死人は出ない。ではこの「殺人事件」とは何だろう?
作中ではありとあらゆる形の空想・妄想等の想像力の産物が登場する。
幼馴染みを殺してしまったという加害妄想に囚われる花、ありもしない殺人事件やオカルト話を信じ込むクラスメイト、それらを全て背負い込み解決しようと奔走するアリス…。
全てが他愛もない想像の産物であるにも関わらず、中学生の彼らはそれらを真剣に悩む。小さな街で、学校という閉じられた空間で、中学生という未だ子供の圏内で生きる彼らにとって、それが彼らの世界の全てだ。遠く離れた場所の赤の他人が起こした現実の殺人事件よりも、自分の通う教室で過去に起きたかもしれない真偽不明の殺人事件の方が、彼らにとっては物理的にも心的にも「リアル」に感じられる。それが本当に起きたことなど関係なく、自分が何らかの形でそれに触れられるということが、それが「リアル」だということにイコールで結ばれる。
…これは飛躍した考えかもしれないが、本作では、思春期という時期が、ありもしない空想の世界で生きることを「許される」時期ではなく、それをさらに過激にした、ありもしない空想の世界「でしか生きられない」時期として表現されているとも解釈はできないか…。
閉じられた小さな世界で過ごす思春期の彼らにとっては、その「殺人事件」は紛うことなき「リアル」であり、それを肯定することが彼ら自身の世界を保つ方法であり、また彼ら自身の生を肯定する行為なのだ。
作中で、思春期の「リアル」を否定し、その外の世界の現実を志向するムーとアリスは、クラス内で異分子として扱われる。前者はそれが現実とは違う「リアル」であることを自覚しながら自分自身もその「リアル」の中の住人を演じることでクラス内での居場所(=生)を獲得する。後者はその「リアル」に外の世界の現実をぶつけて破壊することで生を獲得する。
彼らの「リアル」を破壊することは彼らの生を否定することになる。アリスは、真偽不明の殺人事件を種とした共同幻想を持つクラスメイト達を、その外の世界の現実という凶器を持ってして皆殺しにしたのだ。
そしてそれはアリス一人だけの犯行ではない。自らが発端となって発生した殺人事件騒ぎに対して、その被害者の生死を確かめるという方法で決着を付けた花もその共犯者だろう。
花とアリスが現実という凶器で、閉じた世界の「リアル」を生きるクラスメイトを皆殺しにした事件。それがタイトルにもある「殺人事件」の真意ではないか?
センコロールコネクト
センコロールコネクトを観てきた。
センコロールに関しては正直、主題歌のLOVE&ROLLが良い曲だというぐらいの情報しか持ち合わせておらず、本作が10年越しの新作であることすら知らなかった。
そんな私とセンコロールであるが、結論から言うと、とても好みの作品だった。
具体的に感服した点は、舞台である北海道の「夏」の描写がとても素晴らしかったことだろう。
異世界のようですらある広く鮮やかな青い空、澄んだ空気と淡白な暑さ。内地の湿度の高い夏とは違い、北海道の夏はカラッとしていてそして一瞬だ。
センコロールシリーズでは、そんな爽やかで画になる北海道の夏を見事にアニメで描いており、道民の私は観ていて(夏であるにもかかわらず)夏への恋しさが湧き上がってきた。
監督は北海道出身の方だそうなのでそれは納得。今回待望の2が公開となったが、早くも3の制作も決定したそうなので完成が大変楽しみだ。
灰羽連盟と希死念慮
先日、『13の理由』というドラマがネット上で話題になった。ドラマを見た中高生が、作中の自殺描写に影響され自らも自殺してしまうという、その衝撃的なニュースはネット上を駆け巡り『13の理由』を一躍有名にたらしめた。
いつの時代も創作物は人間の精神に対して強い影響力を持つ。創作物は人の精神に働きかけ、あらゆる感情を呼び起こす。それはポジティブな感情のみならず、怒りや憎しみや悲しみなどネガディブな感情も、全てがその範疇にある。
その呼び起こされる感情の中でも、「生きたい」や「死にたい」など人の生死に直結する物はその最上位に位置するものなのではないだろうか。
このようなことを書くと、「生きたい」「死にたい」を呼び起こす作品が創作物の中で優れた作品というふうに主張していると捉えられかねないが、そういった事は一切考えていないのでその点はご了解頂きたい。
ただ、そういったセンシティブな感情を引き出す作品はかなり特殊なものだとは思う。
前置きが長くなってしまったが本題に入ろう。
『灰羽連盟』というアニメがある。私のとても好きな作品で、恐らく5本の指のうちの1つに間違いなく入るだろう。概要やあらすじの説明はググればすぐに出てくるので各人に任せたい。そして、ここから先は『灰羽連盟』のストーリーに触れるため、未視聴かつネタバレが嫌いな方はこの先を読むのはあまりオススメしないことを書いておく。
私は『灰羽連盟』を観ると、決まって強い希死念慮に駆られる。それはおそらく、現実に対する失望感であったり、グリの街や灰羽達に対する憧れから来るものだろう。
作中では明言されないものの、灰羽というのは死後の魂であり、グリの街は煉獄のような存在として描かれる。ラッカもレキもクウもネムもヒカリもカナも皆1度死んだ者達だ。現世で幼くして命を落とした者達が天国に行くまでの猶予期間、グリの街はそのような存在なのだろう。
本編の中盤までは、このグリの街で灰羽達がどのように生活しているかが明るいタッチで描かれる。一見普通の人間と変わらないように見えるが、手帳という独自の通貨のような物でのみ買い物が許されていることや、必ず仕事を持たなければならないことなど、灰羽独自の暮らし方がそこにはある。
グリの街での灰羽達の暮らしはとても素朴なものだ。娯楽と言える娯楽はなく、労働をし、食事をし、夜は眠る。そんな中でも彼女(彼)達は、日々の生活に喜びを見出し、毎日を楽しく過ごすことに熱心だ。モノに溢れ、時間に追われ、情報の洪水に打たれる我々の生活とは天と地ほどの差がある。
灰羽達の暮らしぶりを見ていると、私も彼女達のような生活を送りたくなる。こんなどんな未来が待っているかもわからない今の現世で精神を摩耗する日々を過ごすくらいなら、いっその事命を絶ってグリの街に転生したい。
そこには安らぎがあり、救いがある。
しかし現世で自殺をした灰羽は、罪憑きと呼ばれる羽の黒い灰羽となってしまう。公式ではその真意については一切語られていないものの、一ファンによる罪憑きに関する考察があり私はそれを強く支持する。
"全くのノーヒントなので、初見でも、二回目でも理解できなかったが、『脚本集』にその意味が書いてあった。
「きゅっ、きゅっ、とリノリウムの床を歩く足音」
「ちん、と鍵を開ける音。ぎぃぃぃぃという重い鉄扉を開ける軋んだ音」
あれは、学校の屋上へと続く非常扉を開ける音だった
それは、ラッカが学校の屋上から身を投げて自殺したことを示唆する"
(風見聡 『【考察】痛みと救い~灰羽連盟~』2015年、https://note.mu/kazami7/n/n6a7b9b5a499e )
罪憑きは現世で自殺した灰羽。ラッカもレキも現世で何らかの理由により自殺という選択肢を選んだのだろう。
2人とも罪憑きという存在であることに苦悩し、救いを求めもがき苦しむ。自殺者は死後もその苦しみが続くというわけだ。
しかし先述したように、グリの街は煉獄のような存在である。煉獄には生前に犯した罪を清め、天国へと送り届ける役割がある。つまり罪憑きにも救済が与えられるのだ。灰羽連盟のお偉いさん的な存在である話師と呼ばれる奇妙な老人は、時に厳しく時に慈しみを持って、灰羽達を導く。いかなる理由であれ、死後の魂である灰羽に対して救いというものはもたらされる。救いと優しさに満ちた世界。それが『灰羽連盟』だ。
『灰羽連盟』を観ていると、現世の苦しみから逃れて救いと安らぎに満ちた優しい世界に行きたいという気持ちに襲われる。私もラッカ達のように素朴だが十分な幸せがある生活を送りたい、そして傷ついた魂をそこで癒したい、痛みや悲しみは存在するかもしれないがそれ以上の安らぎが与えられる世界に行きたい。そういった欲求は容易く希死念慮へと変化する。
私はこの感情を否定しない。尊いものでは無いが、沸き立つこの感情を私は大事にしたい。